みなさんこんにちは!サテライトの海谷です!
この写真は、僕が育った北海道旭川市にある、旭川駅の裏の公園の景色です。
人口30万強を擁する都市の主要駅近くとは思えないほど、広大で緑豊かな景色が広がっている超おすすめスポットなのです!が、雪が積もるともうなにがなんだかよくわかりません。(それもまた好き)
ちなみに、漠然と北海道旅行がしたいと思っている人は僕に相談してください。北海道入門コースから、ウルトラハードコースまで、要望に合わせて提案します。
さて、そうこうしているうちに卒論提出の期限が迫ってまいりました。
次、僕にブログの出番が回ってくるときにはすでにその締め切りを過ぎています。もし提出できていたらそのときは、おそらく単位が取れているかひやひやしていると思われます。
今回は、僕が扱っている「贈与論」について感じた、卒論に使わなそうなことを書いてみようと思います。贈与論の基本的なイメージは卒論計画③をみてください。
贈与論の3つの疑問は「贈ること」「受け取ること」「贈り返すこと」がなぜ義務として成り立っているのかということでした。『贈与論』の著者であるマルセルモースはこれを、北中米やポリネシアといった場所の部族の社会を観察するなかで提唱したわけですが、私はこの贈与という関係が、日本のスポーツの世界にも多く認められるのではないかと感じています。
ところで、「贈ること」「受け取ること」「贈り返すこと」の3つは、どこからスタートするのでしょうか…??
贈与の矛盾として1つおもしろい言い回しがあります。それは「純粋贈与」と呼ばれるものです。
純粋贈与とは、本当の本当に見返りを求めず、その上「自分は贈与しているんだ」という自覚さえない贈与行為のことを言います。自分が贈与している、という自覚がある時点で、”贈与している自分”と”贈与されている相手”という立場が生まれ、例えばかわいそうな人になにかを与えることで倫理的な満足感を得る、みたいな計算的(交換)思考がどうしても働いてしまいます。
では、だれかが純粋贈与をしたとして、それを誰が知覚すればいいのでしょうか?本人に贈与した感覚はないので、そもそも贈与という意図的な行為がその世界に生まれてないので認識のしようがありません。
そんなわけで、僕は「受け取ること」がこの贈与の循環のスタートと考えればいいのではないかなと思っています。
2023年ホーム最終戦の前日設営のとき、ある選手たちがこんな会話をしていました。
「関東リーグ時代ってこういうライン消し作業とか、運営ってあったんですかね?」
「ちょっとだるいっすよねこういうの」
「まあでもおれは…いままでたくさんやってもらったからね」
だいぶ端折りまくってますが…笑 3つ目の発言は、昨シーズンまで多くの人に運営とかで支えてもらったから、今年はおれがそれをするターン、的な意味合いです。
何が言いたいかというと、昨シーズン誰かがこの選手に対し、運営やってあげたよなんていうことは伝えていないはずです。でもこの3つ目の発言をした人は、過去自分が支えられたということを「受け取って」その返礼をその前日設営のタイミングで行ったのです。まさに受け取ることから贈与が始まった例と言えるでしょう。
こういった、時間差を許容する関係も贈与の特長の1つです。
リガーレに所属していると、例えば区のイベントに参加したり、水元のホーム運営があったり、いろいろ義務的な役目の遂行も求められてきますし、有志で人員を募るようなイベントもあったりします。
なにも受け取っていないのに、自分の労力やものを差し出すことを「自己犠牲」といいます。でも、誰かから受け取ったそれへの返礼であれば自己犠牲にはなりません。
もちろんこれを言うと、やりがい搾取とか、だからスポーツ界はお金が回らないとか、そういった視点からの批判は来ますし、それを否定はできません。
ビジネスやスポーツ業界の課題として長期的な視点で解決されるべきものではあります。
ただ、例えば自分の先1年の行動のモチベーションだったり、リガーレ関係者との関係性構築を考えるときには、この「受け取ること」が重要なのではないでしょうか。
と、こんな長いこと書いている場合じゃありません。
卒論本文を書きに戻ります。